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それから、房一は歩きながら漠然とした沈思に落ちた。
「ふん」
さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。
又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。
さう云ひながら一寸横目で自分の膝のわきに据ゑたずつしりと厚味のある榧かやの碁盤を眺めた。
「何かの、それは」
徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
「や、それでは――」
これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつていたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいている家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味していた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いていた。
「誰でも主人が出なくてはいけないきめでせう。すると、千光寺さんはどういふことになりますかね。坊主が神主の恰好をするのもをかしなもんぢやありませんかね!」
このポインタアの雑種は、房一の往診にはどこへでもついて来た。いゝ路づれだつた。
男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持していた。